断片的な走り書き3
この記事は2018.9.15、15:36に更新しました。
更新内容:新たな文章をいくつか追加しました。
一口に瞑想と言っても、それを何のために使うのかを理解していないと駄目だよね。
自己意識を目覚めさせたり、明晰化させるためなのか?
真なる自己の目覚めのために、聖なるものとの接触状態を作り出すためなのか?
聖なるものとの接触状態を深めていくためなのか?
それによって、そのやり方がまるっきり変わってくるわけだからさ・・・
想念というお酒は、アルコール度数が最も高いのである。
だからあまりにも飲み過ぎると、あなたが飲まれてしまうこととなる。
お好きならば、たしなむ程度にしておきなさい。
自分が溺(おぼ)れているということの自覚のない犬を助けようとすると、本気で噛(か)みつかれることとなる。
自己意識が明晰に目覚めていて、なおかつ真に知性的な人というのが、真正なる意味における正気な人というものなのである。
なぜなら彼らは、自らが想念の海で溺(おぼ)れているという悲惨な現実を知っているからである。
そのような自分は、正気ではなく狂気に駆(か)られているということを知っているからである。
このように、正気な人たちというものは、
そのことを知っているのである。
そう感じてもいるのである。
それが理解しているということである。
水中であなたが動けば、水面(みなも)は波打つ。
波を静めようとする、そのわずかな動きでさえも・・・
人はそうやって心の波を静めようとして、自ら波を起こし続けているのである。
『心を静めようとする動き』
聖なるものとの接触がなければ、私たちは水中でじっとしていることなどできやしない。
心が揺れ動いていたっていいじゃないか。
あなたが動じなければ・・・
頭を振ると、周りの景色が動いているように見えてしまう。
あなたが動いてばかりいるから、絶えず心が動いているように感じてしまう。
心とは本来、静かなものなのである。
動物たちを見てみなさい。
生存や繁殖に関わるとき以外の、あの穏やかな表情を・・・
彼らは、禅僧やヨガ行者たちよりも深い瞑想状態にいる。
聖なるものと強くつながっている。
一口に瞑想と言っても、何のためにそれをするのか、その目的を理解していないと駄目だよね。
自己意識を目覚めさせたり、さらに明晰化させるためなのか?
覚醒状態を強化するためなのか?
真なる自己の目覚めのために、聖なるものとの接触状態を作り出すためなのか?
聖なるものとの接触状態を深めていくためなのか?
その目的によって、やり方がまるっきり違ってくるわけだからさ・・・
相性の良し悪しに関係なく、あなたの意識レベルや成熟度に見合った師弟関係でなければ、長く一緒にいることなどできやしない。
悟りの道においては、従来のあなたさえも置き去りにしなければならない。
想念の奴隷であることの惨めさというものを痛切に感じていないようでは、従来のあなたに別れを告げることなどできるはずがない。
真なる自己の目覚めが起きても、やはりいざとなれば従来の自己を捨て去るのは、もったいないというわけである。
しかし自己意識が明晰で、なおかつ真に知性的な人間、つまり正気な人間であるならば、そのような従来のあなたの処分ということを真っ先に優先させるはずである。
探究者は口をそろえて「目覚めたい、悟りたい」と言うが、そうは言っても、その動機はさまざまである。
たとえば悟りの意識状態においては、目覚めの優越感を感じて喜んでいるような従来のあなたが存在する場所はない。
それゆえ、あなたが悟りを実現することによって優越感を感じたいと思っているのなら、その企みは必ず失敗に終わることとなる。
悟りは、それを受けとるにふさわしい者だけに与えられる。
悟りを受けとるには、空っぽの器を用意していなければならない。
私は真なる自己の目覚めの直接伝達によって、いつも果汁100%の聖なるジュースを注いでいるのだが、すぐにあなたはそれを濁(にご)った水(想念)で薄めてしまう。
「まずい、まずい。」と言いながらも、飲み慣れた濁(にご)った水(想念)の味が恋しいというのが、人間というものなり・・・
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